虹描き人アルコ~消えた虹ペン~ 第0話

第0話 はじめの話し

文・写真/こぐれ京 イラスト/なか山浩太朗 

――ない。虹ペンが、ない。

 ホテルのベッドの上で、赤いトランクのふたを開けたまま、アルコは凍りついた。

  いつ、どこでなくしたんだろう?

  この旅を始めてからここまでの間に、トランクを開けたことは1回だけ……飛行機の中だ。

 

 間違いないく、このトランクは、前の座席の下にしっかりとしまい込んであったはずだ。

 

 そのうち、男の子がグズり始めた。同じ列の窓際に座っていた小さな子だ。

「まだ着かないの? もう飽きた」

 その隣のお母さんと、またその隣のお父さんが、やっきになってその子の相手をする。

「もうすぐだよ。ほら、パズル持ってきただろ」

「お食事の匂いがするよ、楽しみね」

 けれど、男の子の機嫌はなかなか直らない。

 アルコは何とかしてあげたいと思って、トランクを引っ張り出し、虹ペンを取り出した。

 その時、前の方から、食事のワゴンが運ばれてくるのが見えた。

 アルコは機内食を食べない。ちょうどいいタイミングなので、 

 ちょっと席をはずして、広い場所でボンヤリしてこようと思う。

 周りの人たちも、その方が落ち着いて食べられるだろうから。

 

 アルコは目を閉じ、うす青く輝く空を想う。

 次の瞬間――

 アルコは、飛行機の天井の上にいる。

 空気の冷たさと、強烈な紫外線が、全身を通り抜けていくのが心地良い。

 体いっぱいに、グルリと周りを囲む青色を吸い込むと、アルコはこれから受ける試験のことを思った。

 

 この飛行機が向かっているのは、海の真ん中にある小さな島。

 アルコはそこで、虹描きの最終試験を受ける。

 課題は、その島にあるいちばん広いビーチの、右端から左の橋まで届く、大きな虹を描くこと。

 それができれば、一人前の虹描きとして認められる。

そして、師匠(マエストロ)がいないときでも、虹を描いていいことになる。

 生まれてからずっと、一人前の虹描きになるために、修行の旅をしてきた。

 だから、やっとここまで来たんだ、と思うと、アルコはいい気持ちだった。

 

 虹ペンを手に持って、大きく、大きく、グルリと回した。

 ペン先が、白く輝く半透明の軌跡を描く。

 そこからジワリ、ジワリと色がにじみ出る。

 赤、黄、緑、青。

 4色。まあまあの色数だ。

 いい虹になりそうだと、アルコはニコニコした。

 

 目を閉じ、空気を吸い込み、目を開けると、アルコは機内の席に戻っている。

 周りでは、機内食を食べ終えた人々が、食後のお茶を受け取ったり、雑誌をめくったり。

 アルコが飛行機を出たり入ったりしていることは、誰もとくに気にしていない。

 そこにいるようで、いないようで、やっぱりいる。

 人間たちにとって、虹描きっていうものは、そんなボンヤリしたものらしい。

 そのとき、男の子が大きな声を出した。

「虹だ!」

 どれどれ、とその両親も顔を寄せて、小さな窓から外を覗く。

「あら、キレイ」

「まあるいね」

「雲にね、映ってるんだよ。雲ね、床みたい」

「飛行機の影が光っているみたいだ」

 親子の声に誘われるようにして、その前後の席の人も、窓に顔をくっつける。

 その前の人も、その後ろの人も、雑誌から目を移し、お茶を口にふくみ、外を見る。

 虹が大きく広がるように、外を見る人の輪が広がっていく。

 白い雲の上を飛ぶ飛行機の影の周りを、4色の円が囲んでいるのが、見えているはずなんだ。

 旅のワクワクが、男の子を中心にして、みんなに静かに広がっていくのが分かる。

 それがアルコには、たまらなく嬉しかった。

 マエストロには、内緒にしておかなくちゃ。

 そう思ってアルコは――

 虹ペンをトランクに仕舞って、フタを閉じた。

 

 その時からは、一度もトランクを開いていない。

 まるで、ペンは煙になって消えてしまったみたいだ。そんなことってあるんだろうか。

 マエストロが知ったら、何て言うかな。

 アルコはそう思うと、目の前が真っ暗になるような心地がして、ベッドに倒れ込む。

 そういえば、マエストロはどこにいるのかな。

 一足先に旅立って、試験の手続きをしておくとか何とか言っていたのだが。

 

 そのとき、目の端にチラリと、何かが映った。

 ――虹?

 顔を上げると、窓から見える海に、大きな虹がかかっている。

 もちろん、アルコが描いたものではない。

 誰か、虹ペンを持っている誰かが、あそこで虹を描いたのだ。

 とっさに、アルコは部屋を駆け出した。

 

 ホテルを出て、道路を渡ると、ビーチへと続く遊歩道の入り口があった。

 なだらかな細い道を、駆け下りる。黒々とした木の枝の間から、海が見える。

 波の音が、地の底から響いてくるかのように、迫ってくる。

 あの虹ペンを、他の誰かが持っているなんて。しかも勝手に使っているなんて。

 そう思うと、おなかの辺りがキューッと締め付けられる。

 そしてそれは、アルコにとっては、妙に生々しくて不思議な、初めての感覚だった。

 走る足の下の小石。ねじくれた小枝。アルコに驚いて飛び去る小鳥、そしてそのまっ赤なとさか。

 何もかもが今までにないくらい、ハッキリとした輪郭をもってアルコを包みこむ。

 ペンがない。それが、世界を何か別のものに変えてしまったにちがいない。

 ペンを、取り戻さなければ。生まれてからずっと持っていた、あの虹のペンを。

 

     虹描き人アルコ~消えた虹ペン~とは?

       世界各地に虹を描いて、旅している虹描き人アルコが

       とある南の島で体験した不思議な物語。

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